十六ビットのゲームが少しも売れんのは
山内「ほとんどの人は、ハードを手に入れることが楽しいんやなくて、ソフトのゲームをプレイすることが楽しいんやからねえ。いくら性能を八ビットから十六ビットや三十二ビットに上げようが、それを上回る楽しいソフトを作られへんかったら、遊びたいとは思わない。十六ビットのゲームが少しも売れんのは、明らかにソフトがおもしろくないからです」
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著

 この「少しも売れん」16bitのゲーム機とは、株式会社セガ・エンタープライゼス(現・株式会社セガ)より、1988年10月29日に発売された家庭用ゲーム機、メガドライブのことだと言われています。
メガドライブは、セガが開発した5番目の家庭用ゲーム機であり、ゲーム機としては初めて16bitのプロセッサを採用したことで話題となりました。メガドライブで採用されたMC68000は、当時パーソナルコンピュータでも現役で使用されていたプロセッサであり、それをいち早く家庭用ゲーム機に採用、しかも2万1000円という低価格で販売するというニュースはゲーム業界のみならず、コンピュータ業界でも驚きをもって迎えられました。

またメガドライブが採用したMC68000CPUは、セガによる一括・大量発注によって開発コストや生産設備投資などの償却に成功、これを受けて大幅に価格を下げ、組み込み向け用途などの普及を後押しするという影響も及ぼしている。
実際にメガドライブに搭載された68000CPUは日立によってセカンドソース生産されたものであったが、これは当時まだ世界的に認知されていなかったゲーム機メーカー(それも日本の二流メーカーである)による100万個単位の大量発注を受け付けることはリスクが高すぎると判断したモトローラ側が警戒し、セカンドソースを生産していた日立を介して供給することで受け容れたという事情があった。
http://ja.wikipedia.org/

大胆な大量発注によるコストダウンといえば、任天堂がファミリー・コンピュータのカスタムチップをリコーに発注する際、「二年間で三百万台を保証する」と提示したというエピソードが有名です。このことは、ファミコンと同時期から家庭用ゲーム機を発売していながら、ずっと任天堂の後塵を拝していたセガがリスクを省みず勝負に出た出来事といえるでしょう。

 さて、メガドライブは実際に「少しも売れ」なかったのでしょうか。歴代ハード出荷台数によりますと、以下の通りとなります。

名称/北米名称 国内販売台数(万台) 海外販売台数(万台) 備考
メガドライブ / Genesis 3583074 メガCD / SEGA CD含まず

国内販売台数は、ファミコン・スーパーファミコンと比べるべくもないほど少ないですが、注目すべきは海外販売台数でしょう。このGenesis(メガドライブの北米での名称)の台数は、SNES(スーパーファミコンの海外名称)と肩を並べる数字です。(※セガは公式に出荷台数を発表していません。登場する数値は各機関の集計によるものであり、それぞれに差異が発生しています。)
 では、日本では振るわなかったメガドライブが、なぜ海外ではここまで成功したのでしょうか。

 以下のグラフは長銀総研のデータに基づいて作成された「家庭用ゲーム機 累積出荷台数の推移」(世界累計)です。1990年11月に登場したスーパーファミコンがわずか1年半ほどの期間でセガ(メガドライブ)と日本電気ホームエレクトロニクス(PCエンジン)を抜き去っています。また、メガドライブ・PCエンジン発売後もファミコンの出荷台数が衰えず伸び続け、スーパーファミコンが主流になり出した91年付近で伸びが鈍ったことが読み取れます。
 つまり、ファミコンのユーザーはメガドライブやPCエンジンに乗り換えることなく、スーパーファミコンを次のハードに選んだということです。


キング・オブ・ゲームの未来戦 山名一郎 著より

 消費者が、スーパーファミコンのために買い控えをし、メガドライブが伸び悩んだと見る向きもあります。実際、スーパーファミコンはメガドライブと同じく、当初は1988年に発売されると報道されていました。

 見出しは、「十六ビットのスーパーファミコン開発」となっており、『任天堂の山内社長は、スーパーファミコンを発売することを明らかにした。ファミコンとは互換性を持たせるのが最大の特長。来年の夏ごろには全国の店頭でデモンストレーションする予定で、現在試作中―――』(八七年九月九日・京都新聞)とある。
(中略)
 新聞に発表されたものだけをざっと並べても、次のとおりだ。
 『任天堂、スーパーファミコンを今秋にも発売』(八八年一月二十五日・日経新聞)
 『任天堂(京都市東山区)は二十一日、家庭用テレビゲーム機「スーパーファミコン」を発表した。次世代機として十六ビットの中央演算処理装置(CPU)を搭載したことが最大の特色。(中略)発売時期は八九年七月の予定。価格は未定』(同年十一月二十二日・朝日新聞)
 このときは、前日、任天堂自身が本社で「スーパーファミコン仕様発表会」を開催、大挙押しかけた報道陣を前に、スーパーファミコンの試作品と仕様を公開するイベントまで行っている
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著

 これだけを見ると、スーパーファミコンが1990年11月という実際の発売日に決定する前に、何度も発売延期を繰り返したというようにしか読めません。が、それぞれの新聞報道発表時期や発売予定日となっている時期を見ると、ある共通点が浮かび上がってきます。

 ファミコン雑誌の編集者が言う。
 「最初の京都新聞での山内社長のコメントは、任天堂側のリークというのが業界の定説です。というのは、このときは八月に日本電気ホームエレクトロニクスがハドソンとの共同開発による『PCエンジン』を十月から発売する、と発表した直後なんです。(中略)
 しかし、PCエンジンはファミコンより高機能を売り物にし、日本最大のパソコンメーカーNECと、ファミコンのサードパーティとして実績のあるハドソンとの連合軍だから、任天堂も相当脅威を感じたはずです。だからPCエンジンの発売前にアドバルーンを打ち上げ、ファミコンユーザーが目移りしないようにしたんです」
(中略)
 任天堂本社における「スーパーファミコン発表会」も、同様の意図があったという。
 「これは明らかに、その一ヶ月前に発売されたセガの『メガドライブ』潰しです。メガドラは家庭用テレビゲーム機として初の十六ビット機で、ファミコンと比べると性能・機能的にプロペラ機とジェット機ぐらいの差があり、ゲームマニアはみんなメガドラに走るだろうと予想された。任天堂とすれば、『ウチも出すから、買うのはちょっと見合わせなさいよ』とアピールしておきたかったんです。第一、任天堂という会社は、あまりマスコミに対して親切じゃない。それが、わざわざ報道陣を本社に招いて、半年も先に発売する新製品の発表会をしたのだから、ふつうじゃないですよ」
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著

 任天堂が他社製品をけん制するために、こうした発表を行うことはこれ以降もしばしばありました。まだ構想の段階にあり発売される見込みが怪しいハードやゲームについてさえ、そのレベルで誇張した発表を行い、ユーザーに他社製品を買い控えさせつつ発売延期を繰り返す、という戦略です。事実、スーパーファミコン用CD-ROMアダプタは結局発売されませんでしたし、ニンテンドウ64DDでは任天堂が発表していたソフトラインナップは実現されないまま終わりました。
 また、こうした発表や発言は、初心会のソフト展示会席上でもたびたび行われました。この「ウチも出すから見合わせなさいよ」は、ユーザーに伝えると同時に流通に対してもアピールする目的があったと思われます。

 また一方で、山内がゲームキューブの発売延期について、「我々の感覚では2ヶ月遅れは普通。」と語ったように、良いものを作るためには延期をも厭わないという姿勢が任天堂にはありました。
 この「良いものを作るために延期を厭わない」という姿勢が、スーパーファミコン発売延期の一番の原因であったという見方もあります。

 二年半も発売が遅れた事情について、任天堂は公式には、「全て予定通りだった」という立場を取っている。時期に関する記事は、マスコミが全て憶測で書いたというのである。
 マスコミ嫌いの任天堂らしい、ヒトを食ったコメントだが、マスコミが「裏」も取らずに記事にするはずもない。憶測もあったかも知れないが、そのほとんどは任天堂側の情報にもとづいたものである。
 真相は、後に任天堂技術陣も半ば認めたことだが、「メガドライブ」の性能が予想以上に素晴らしかったので、「スーパーファミコン」のコンセプトの見直しが、迫られたのだ。
 しかし、任天堂のハード開発力はたかが知れている。
 任天堂にとって一番最初の家庭用ゲーム機であるテレビゲーム15では三菱電機、「ファミコン」ではリコーとシャープをパートナーとして開発している。「スーパーファミコン」が「メガドライブ」を完全に上回るためには、それ以上の相手が必要であった。
 任天堂が切り札として選んだ相手こそが、ソニーであった。(後略)
ソニー・セガ・任天堂・ゲーム機最終戦争 馬場宏尚 著
 「当時はSRAMの値段がメチャ高く、そのまま市場に出そうとすれば、スーパーファミコンの価格設定も三万円はとうてい切れないという状況でした。(中略)
もし半導体の高騰がなければ、昨年中に発売していましたよ」
 このほか、技術的なアップに時間がかかったことも理由だったようだ。つまり、メガドライブの機能が予想以上に高く、これを凌駕する新機能をつけるのに手間取ったというわけだ。
 業界の関係者によれば、半導体の高騰も一因だが、ほんとうの理由は後者のほうではなかったかという意見である。
 「任天堂は、いまや半導体メーカーにとって最大のお得意先だから、価格はなんとかなる。それよりも任天堂とすれば、メガドラよりあとに出す以上、スーパーファミコンはより高機能にしなきゃいけない。上村さんの発言は、技術者として正直な感想だろうと思います。(後略)」
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著

この「上村さん」とは、ファミコンとスーパーファミコンの開発を行った任天堂開発第二部長・上村雅之(当時)のことです。冒頭の山内発言では、ゲームの本質はハードウェアの性能如何の問題ではないとしていましたが、少なくとも技術担当は性能も重要視していたようです。また山内自身も、ファミコン開発時に「他社が少なくとも一年ぐらい追随できないようなものを開発しろ」と上村に命じたと言われています。(参考資料5.)
つまり、ゲームに大事なものはソフトウェアであるが、ハードの高機能化をもおざなりにはしない、というのが任天堂の基本姿勢であるということでしょうか。

 では、このスーパーファミコンの登場が、メガドライブの販売にどのような影響を及ぼしたかを見てみます。メガドライブ / Genesisの販売台数を時期と地域別に細かく分類したデータが以下になります。

時期|地域日本米国欧州
88/10~89/340  
89/4~90/36040 
90/4~91/3909060
91/4~92/370170120
92/4~93/340380330
93/4~94/380600350
計(単位:万台)3801280860

BEEP!メガドライブ(ソフトバンク・パブリッシング)より作成

これによると、メガドライブの日本国内での販売台数は、発売から数年間は順調に推移しています。が、スーパーファミコンが発売開始された翌年である91年度から下降に転じ、92年度にはピーク時の約半分である年間40万台まで転落します。93年にはまた上昇に転じますが、これは価格を下げたモデルであるメガドライブ2が同年に発売された影響であると考えられます。ファミコン・スーパーファミコンが国内でともに1500万台以上を最終的に販売したことに比較すると、このメガドライブの400万台前後という数字は失敗と言わざるを得ないでしょう。

 一方、欧米市場での販売台数は驚くほど好調です。特に北米市場では発売当初(89年9月に北米全土で発売開始)こそやや低調ですが、その後倍々ペースで販売数が伸び続けています。北米では91年9月にGenesisから2年遅れてSNESが発売開始されましたが、その影響はほとんど見られません。このデータは93年度までのものですが、32bit家庭用ゲーム機が登場する94年以降もGenesisは売れ続け、新作ソフトが98年までリリースされ続けるほどのロングセラーとなります。
 また欧州はセガの8bitゲーム機であるマスターシステムが、元々NES(ファミコンの海外名称)以上のシェアを持っていた市場でした。普及しているマスターシステムのゲームソフトをメガドライブでもプレイできるようにする、Power Base Converterと呼ばれるアダプタを発売したことが、移行をスムーズにしたとも考えられますが、もちろん原因はそれだけではありません。

 セガはアメリカで評判のいい流通業者(トンカ社)を買収し、一,〇〇〇万ドルの宣伝費を注ぎ込んで、ゴリアテ打倒に乗り出した。定価一九九ドルのジェネシスの販売は、アーケードで遊んだ子供ならだれでも知っているゲームソフトの威力に全面的に依存していた。
(中略)
セガはまっこうから任天堂を攻撃した。「セガのジェネシスは任天堂のマシーンにできないことをやってのける」がスローガンだった。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳

これがあの有名な「Genesis Does What Nintendon't」というキャッチフレーズです。テレビCMで流され、当時の米国の子どもであれば誰でも知っているほどの認知度でした。他社との比較広告が一般的である米国では、自社製品の優位性を他社のそれと比較することで直接消費者に訴えるという手法が取られます。米国では任天堂も、先の山内発言のように暗にけん制するのではなく、セガを直接的に攻撃する広告を打ち対抗意識を露わにしていました。
 また、注目すべきは流通業者であるトンカを傘下におさめたことでしょう。米国でのマスターシステムの不振(こちらも正確なデータはありませんが、一説によると販売数200万台程度に終わったようです。)の反省から、セガは米国での流通の強化に取り組み続け、任天堂には及ばないものの独自の流通網を育てることができました。ちなみにセガは、日本においては任天堂の影響力の強い初心会系玩具流通を使わざるを得ない状況で、常に苦戦を強いられました。

 しかしながら本当の成功に必要なものは、ハードウェアの設計や広告・流通よりも、山内の言う「楽しいソフト」の存在が不可欠です。アーケードゲームの移植や人気選手との契約によるスポーツゲームのリリースにより、セガはトレンドセッターと呼ばれるティーンエイジの男子の取り込みには成功しました。(これはNOA、任天堂オブアメリカの調査でも確認されました。)
 しかし、小さい子どもや女の子といった、本当の成功に不可欠な層への訴求には手をこまねく状態でした。このとき、こうした状況を脱する出来事が続けて起こります。

(略)サードパーティのソフトハウスとして初めて同社のライセンスを取った企業から思いもかけぬ強力な助っ人が現れた。エレクトロニック・アーツ(EA)のホーキンスである。ジェネシスの総売上台数は一〇〇万そこそこで、任天堂のファミコンとは比較にもならないが、ホーキンスはセガが前途有望な市場を創出してくれたと見ていた。しかも、入場料は任天堂のそれよりもはるかに安い。競争はないも同然だし―――ビデオゲーム業界のソフトウェア企業はこぞって七,〇〇〇万の任天堂ファンを追いかけていた―――ジェネシスを買った一〇〇万人のゲーム狂はいいゲームを必死に求めている。その需要はパソコンのオーナーのそれをはるかに凌駕している。
(中略)
 一九九〇年、EAは初のジェネシス向けゲームを出荷した。とたんに、同社の株価が急騰した。翌年、さらに九本のゲームを発売し、そのうち四本がベストセラーリストのトップテンに入った。
(中略)
一九九〇年度の同社の売上高の四分の一はジェネシス向けのゲームによるものだった。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳

エレクトロニック・アーツといえば、現在では世界最大の規模を誇るゲームソフトウェア企業です。元々パソコン用のゲームを開発していたEAですが、NESの好調を受けて任天堂のライセンス企業となります。しかし、高性能のパソコンゲームをフィールドとしていたEAは、NESでは自社のソフト資産や開発力をうまく生かせずにいました。そこで、性能の高い16bitゲーム機であるGenesisに目をつけ、まだ市場も小さく他にライセンス企業もないことから、有利な条件でセガのライセンスを受けることに成功します。

 この状況に乗じてセガとライセンス契約を結ぶソフトウェア企業も出てきた(EAの場合ほど制約は緩くなかったが、任天堂のそれと比べるとまだかなり条件がよかった)が、多くの企業は任天堂の報復を恐れて動こうとはしなかった。EAはあえてそのリスクを冒してセガの技術に賭けた(それは一応、成功した)のだが、セガに身を寄せた他のソフトハウスは、いわば、失うものは何もないという切羽詰まった企業ばかりだった。 (中略)
 ジェネシスそのものの売り上げも伸び、一九九一年中期までに、その数は一〇〇万を大きく超えた。ファミコンのアメリカでの販売台数は述べ三,一七〇万に達していたが、この時点でセガは次世代のマーケットリーダーとしての立場を固めたといってよい。機が熟すまで十六ビット市場に入らないと宣言していた強力無比の任天堂は足をすくわれた。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳

 任天堂が不当な契約によってファミコン市場を支配しているという意見は、国内外を問わず当時のサードパーティから挙がっていました。日本では、週刊誌等でナムコの中村社長が任天堂に痛烈な批判を加え、マスコミにも大きく取り上げられました。米国では、アタリが任天堂に対し、いくつもの訴訟を起こしたことが知られています。表立った態度こそ取らないものの、こうした任天堂への不満はどのライセンス企業にも見られ、セガはこの追い風にうまく乗っかった形となったようです。ただし誤解すべきではないのは、任天堂のライセンスを受けた殆どのソフトハウスが、ファミコンのソフト売り上げで充分な利益を上げていたという点と、セガのライセンス条件は任天堂に比べると格段に緩いものの、基本的な姿勢には大きな違いはなく、セガがサードパーティの天国であったというわけではない点です。

 さて、ここでもうひとつ、セガが待ち望んでいたものがもたらされます。それは自社の大ヒット作品です。

(略)結局、<スーパーマリオワールド>は歓迎されなかった。セガの十六ビット機向けに発売された新しいゲームと比べると特に見劣りがした。
 それはセガと契約している独立系のソフト開発業者が制作した<ソニック・ザ・ヘッジホッグ>で、プレーが遅いと性急に地団駄踏んでせかす可愛い生き物が主役を務める。
(中略)
セガは<ソニック>を史上最高速のビデオゲームだと宣言した。同社はやっと自分のマリオを発見したのである。
 <ソニック>は偉大なゲームではないが、斬新で、キャラクターは愛らしかった。グラフィックスも見事だし、弾むような音楽もよかった。御多分に漏れず繰り返しという欠点はあったが、任天堂や他のライセンス企業が有力なライバル作品を出していなかったせいで、市場は<ソニック>の一人舞台となり、ジェネシスも売れに売れた。セガにとっていちばん有難かったのは、<ソニック>が任天堂のスーパーマシーンの出鼻をくじいたことである。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳

このように、日本では完全に押さえ込まれたまま終わったセガが、米国では先手を取ることに成功しました。しかしGenesisの好調にも関わらず、SNESも猛烈な勢いで追撃をかけ、結果両社のゲーム機は値下げを繰り返しながら熾烈な争いを繰り広げることになります。米国ではこれを『16-bit console wars』、16ビットゲーム機戦争と呼びます。  では結局、この悪名高い戦争を制したのはどちらだったのでしょうか。

By 1992, Sega was enjoying a stronghold on the market, holding a 55% market share in North America. Faced with a slight recession in sales and a brief loss of market share to the SNES, Sega again looked to Sonic to rejuvenate sales. The release of the highly anticipated Sonic the Hedgehog 2, coinciding with an aggressive ad campaign that took shots at Nintendo, fueled Genesis sales a while longer and boosted Sega's market share percentage back up, to an astounding 65%.
http://en.wikipedia.org/
The Super Nintendo Entertainment System was Nintendo's second home console, following the Nintendo Entertainment System (often abbreviated to NES, released as the Famicom in Japan). Whereas the earlier system had struggled in the PAL region and large parts of Asia the SNES proved to be a global success, albeit one that could not match its predecessor's popularity in South East Asia and North America—due in part to increased competition from Sega's Mega Drive console (released in North America as the Genesis). Despite its relatively late start, the SNES became the best selling console of the 16-bit era but only after its competitor Sega had pulled out of the 16-bit market to focus on its 32-bit next generation console.
http://en.wikipedia.org/

米国での16ビットゲーム機戦争は、僅差でセガの勝利に終わったようです。NESのヒットによって90%を超えていた任天堂のシェアを奪い、セガのシェアは65%にまで達しました。最終的な販売台数で勝るSNESですが、それはセガが32bitゲーム機に移行して後に達成されたものであるようです。
 では、新しい王座にセガが座り、新たにセガによるゲーム業界の支配が始まったのでしょうか。 そうではありません。真の勝者は他にありました。

 NOAは新しいライセンス企業の出す作品の質を独特の方法でコントロールしようとした。契約から排他的な条項を削除(少なくとも部分的にはそうで、これはFTC<連邦貿易委員会>の睨みと反トラスト法違反の係争がまだ続いていることを考慮した結果)するかわりに、各ライセンス企業に年間三種類のゲームしか制作させないことにした。
(中略)
 この新しい契約によると、ライセンス企業は他社のマシーン向けにゲームを制作、販売しても差し支えないことになっている。(中略)が、いずれ任天堂は八ビット・ライセンス企業に対したときと同じようなやり方で、陰に陽に、スーパーファミコンライセンス企業に縛りをかけるのではないかと憶測する向きもあった。任天堂はセガに協力した会社に報復するのではないか?(中略)また、NOAが流通業者や小売店に”影響力”をふるうときの微妙なやり方についても不安があった。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳
 大方の任天堂ライセンス企業は任天堂とセガの競争を歓迎したが、現実にはどちらのマシーンを支持するか、あるいは両社を共に支持するかの選択を迫られた。任天堂の力を弱めるものなら何でも歓迎という態度を示す企業も幾つかあった。その底には恨みの感情もあった――暴君の失墜を目にするのは楽しいものだ――が、自社の立場が強化されるという計算も働いていた。もともと各社ともファミコンのライセンス企業になりたくて任天堂にすり寄っていったのだが、こんどは任天堂のほうが彼らを必要としていた。セガを打倒するには強力なゲーム・ライブラリーを揃えねばならず、そのカギを握っているのはライセンス企業なのだ。
(中略)
 まあいろいろあるにせよ、両社の競争によって、ソフトウェア企業が、任天堂の一党独裁のころには望めなかった一種の独立を獲得したことは事実である。
(中略)
ビデオゲーム業界のハードウェア戦争で任天堂が勝とうがセガが勝とうが、両社共倒れになろうが、ソフトウェア企業の勝利は確定的だった。エレクトロニック・アーツ社はビデオゲーム業界のマイクロソフト社になったのである。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳

つまり、真の勝者はハードプラットフォーム企業ではなくゲームソフトウェア企業であり、これ以降ソフトウェア企業こそが強い力を握る時代が到来したということです。

 米国市場で薄氷の勝利を収めたセガは、その16bitゲーム機の大きなシェアが逆に足かせとなって、次世代32bit機への展開が遅れ、新たな挑戦者の前に敗れ去ることになります。皮肉なことにその挑戦者は、かつて任天堂のパートナーを務めていたソニーでした。


参考文献
  1. スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著
  2. キング・オブ・ゲームの未来戦 山名一郎 著
  3. ソニー・セガ・任天堂・ゲーム機最終戦争 馬場宏尚 著
  4. BEEP!メガドライブ(ソフトバンク・パブリッシング)
  5. ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳
※加筆修正中