半導体の得意客に勝負を挑むのか
NECの社長だった現相談役、関本忠弘(75)は振り返る。「うちがゲームをやると聞き、任天堂社長の山内溥さんが怒った。半導体の得意客に勝負を挑むのか、とね」。
朝日新聞2001年12月1日夕刊

 PCエンジンは、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社より、1987年10月30日に発売された家庭用ゲーム機です。
販売はNEC HEが行いましたが、ハードウェアの設計開発およびソフトウェア開発には株式会社ハドソンが携わりました。

 当時パーソナルコンピュータ市場において圧倒的なシェアを誇っていたNECと、任天堂のファミリーコンピュータで大ヒットゲームを次々と生み出していたハドソンがタッグを組み家庭用ゲーム機に参入、ことによっては任天堂に取って代わり家庭用ゲーム機のトップシェアを奪うのではないか、と大きな話題を呼びました。山内が危機感を持ち、NECをけん制するのも無理もない話かも知れません。
 さて、この強力タッグですが、NECとハドソン、いったいどちらから持ちかけた話だったのでしょうか。

任天堂のライバルのひとつに挙げられるNECの子会社、NEC・HEにしても、実際にはゲーム機開発にはそれほど熱心ではなかった。PCエンジンの開発に関しては、ソフト・メーカーのハドソンが協力しているが、むしろハドソンが主役になって、引っ張っていったのである。
 ハドソン側は、NECを説得するのに、「ゲーム機こそマルチメディア機器の地平を拓くものだ」、と主張した。
ソニー・セガ・任天堂・ゲーム機最終戦争 馬場宏尚 著

 ハドソンといえば、ファミコン参入サードパーティの第一号であり、ファミコンのハードウェアから任天堂のゲームビジネスに至るまで、隅々まで熟知した会社でした。パソコンの世界の巨人であるNECを担ぎ、家庭用ゲーム機の王者である任天堂を追い抜くだけの勝算がハドソンにはあったのでしょうか。

 それだけに、ハドソンが設計したPCエンジンは、ファミコンと兄弟といってよいほどに似通ったハード構成となりました。CPUには、ファミコンと同じくMCS6502互換の8bitプロセッサを使用し、ファミコンに慣れた開発社であれば(もちろんハドソン自身がそうです)、容易にPCエンジンソフトを開発できるようになっています。
 また、これはユーザーにとっても同様で、たとえばコントローラの形状はほぼファミコンと同じ形状、同じボタン数のものを採用し、ACアダプタやRFユニットに至ってはファミコンのものをそのまま使用できるようにすることで、ファミコンになじんだ子どもであれば、PCエンジンにすんなりと入り込めるようになっていました。
(※正確にはACアダプタとRFユニットの流用はメーカー非推奨です。ですが当時のゲーム雑誌には互換があり、そのまま使えると書かれていました。)


 PCエンジンはゲームソフトの供給媒体として、Hu-CARDと呼ばれるICカード型カートリッジを採用しました。
これはハドソンが開発し、MSXでリリースしていたBee Card、セガSG-1000等で一部採用されたマイカードと同等のものです。任天堂のファミコンカセットに代表される一般的なカートリッジ形式に比べ、ICカード型であるこの形式はROM容量が圧倒的に小さく、またハードに不足する機能をを拡張するための処理チップ(スーパーファミコンソフト スターフォックスにおけるスーパーFXチップが代表例。三次元描画強化機能を持つ。)を内蔵することも困難であるため、MSX・セガゲーム機のどちらにおいても主流となりませんでした。実際PCエンジンにおいても、初期の名作と名高い『R-TYPE』が、前編・後編に分けてリリースされたのは、初期のHu-CARDが2Mbitの容量しか持てなかったためでした。
(※セガマーク3でリリースされた『R-TYPE』はカードではなく、通常のカートリッジが採用されています。ROM容量は4Mbit。)

 ではなぜ、NEC HEとハドソンは、この新ハードにあえて小容量のカード型カートリッジを採用したのでしょうか。 これには、PCエンジンを語るうえで外すことのできないキーワード、コア構想が関係しています。

コア構想(コアこうそう)とは、PCエンジンを様々な周辺機器の核(コア)として置き、ゲーム以外の事にも対応させようという物で、その名が表す通りPCのような役目を負わせることを目標とした構想。
しかし、CD-ROM2以外に功績が無く、結局PCエンジンDuoの登場によってコア構想は終焉を迎えた。
http://ja.wikipedia.org/

 PCエンジンの基本設計がファミコンに酷似している点が、家庭用ゲームを畑とするハドソンらしさを感じさせる部分だとすれば、このコア構想はパソコン業界からの参入であるNECの血を強く感じさせる部分です。コア構想の是非はともかく、PCエンジンは初期の段階から周辺機器による拡張が発表されておりました。 (※同様の機能拡張は任天堂、セガのゲーム機でも行われていましたが、それをハードウェアの売りとして大々的に宣伝したのはPCエンジンが最初です。)
 なかでも目玉である、CD-ROMによるゲームの供給は、世界初の試みということもあり大きく報じられました。

 PCエンジンがHu-CARDからCD-ROM2(PCエンジンのCD-ROM規格の名称)への早期の切り替えを想定していたのは間違いありません。当時、ゲームソフトの高度化に伴って、ROMカートリッジの大容量化が必要となりましたが、大容量のROMチップは高価格な上に大量生産がむずかしく、慢性的な供給不足に悩まされていました。この状況のなか、任天堂をはじめするとする他社もCD-ROMによるソフトの供給を検討していましたが、過去のしがらみのないまったく新しいハードであり、かつパソコン業界の雄NECの技術的バックアップが望めるPCエンジンは、いち早くこの思い切った舵取りを実行しました。

CD-ROMは媒体がフロッピーディスクと同じだから、コスト的に安く、製造に要する時間も短くてすむ。マスクROMは早くて三ヶ月、半導体の供給が不安定なときは半年間も待たされることがしょっちゅうだったが、CD-ROMは三週間でリリースできる。発売前に人気が盛り上がれば、一週間前に追加注文しても二週間後には市場に出せる。しかもCD-ROMは無尽蔵で、半導体のように相場に左右されることもなく、原版に焼きつけるだけだから少数生産にも向く。つまり、市場の動向を見ながらタイムリーにリリースでき、サードパーティや問屋のリスクが減る。九一年は、スーファミやメガドラ、PCの戦いというより、ROM対CDの戦いになると思います。

ハドソン企画開発本部長 高田秀雄
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著

 さて、この強力な挑戦者NECに対する威嚇が、冒頭の山内の発言となるわけですが、もう一方のハドソンに対しては、任天堂からの圧力はなかったのでしょうか。前述のとおりハドソンは、任天堂の元で家庭用ゲームビジネスを共に推進してきた盟友です。この裏切りに対する報復はなかったのでしょうか。

「たしかに、そういう噂が流れましたよね。でも実際には、ウチがPCエンジン陣営に参加しても任天堂との関係はギクシャクしなかったし、経営的にも問題ありませんでした。そもそもウチがCD-ROMをやるについては、両者理解のうえに立ってスタートしたわけで、社内の開発体制も二つのラインを平行して進めましたからね」
「ドラクエ」「信長」ソフト産業の崩壊 高橋健二 著

 この理由について、同書の著者である高橋は、

を挙げ、前者ではないかと推測しています。
たしかにハドソンは、PCエンジン発売後もそちらに軸足を完全に移すことなく、任天堂プラットフォームにソフトを共通を続け、両社は良好な関係にあったように思われます。


 では、パソコン業界の巨人とゲーム業界のトップによるタッグチームの挑戦は、王者任天堂を倒すことができたのでしょうか。
冒頭の会話の続きが以下です。

関本は山内を碁に誘い、「どうせ大したことはできませんから」となだめた。だが、PCエンジンは世界で580万台を売るヒットになる。
朝日新聞2001年12月1日夕刊
この数字は、ハドソンの発表にも登場しています。
※「PC Engine」について
 日本電気ホームエレクトロニクス株式会社とハドソンが共同開発し、1987年に発売したテレビゲーム機。関連ハード全12種類の累計出荷台数は584万台。巨大なキャラクターが滑らかに動くグラフィックスやサウンドの音質など、当時のゲーム機の常識を覆す高性能を実現。ソフトを「Huカード」というICカードで供給、CD-ROMをゲームソフトのメディアとして最初に使用するなど、その斬新さで話題となった。
http://www.webbee.net/

 「世界で580万台」は、家電業界の数字からすると大ヒットと言えます。しかし、家庭用ゲーム機の数字としては、正直ヒットと呼べるものではないでしょう。その不振から、セガが家庭用ゲーム機事業から撤退することとなったドリームキャストですら、世界累計出荷台数は1000万台を超えています。

 またハドソンの発表にあるように、この数字は「関連ハード全12種類」を累計した台数とのことです。つまり、携帯機であるPCエンジンGT/TURBO EXPRESSや、廉価機であったPCエンジンシャトル、(短命に終わった)上位機であったPCエンジンスーパーグラフィックスや、それ単体では遊ぶことのできないCD-ROM2ユニットまでをも含んだ数字ということになります。このことから、当時実際に稼動していたPCエンジンの台数はこの発表以下となり、PCエンジンの実際の市場シェアはかなり小さなものだったことが推測されます。

 「関連ハード全12種類」という記載にもあるように、PCエンジンは家庭用ゲーム機としては珍しく、ハードを短期間に何度もモデルチェンジしたことが特徴です。任天堂はファミコン・スーパーファミコンそれぞれの衰退期に、その廉価機を投入することはありましたが、基本的には同じ製品を何年間も売り続けるスタイルを取っていました。
(※ただし、基板レベルでの変更は行われていました。一説によると、ファミコンには15種類ものバージョンが存在するそうです。)
 PCエンジンが頻繁にモデルチェンジを繰り返した理由としては、NECがパソコンの会社であったことが挙げられます。パソコンの世界では、若干の機能追加を行っただけの新モデルを、大々的に広告しつつボーナス時期などの商戦に合わせて毎年リリースするのが常識です。しかし、この方法論がユーザーや小売店、流通に受け入れられたかは疑問です。

 あるソフトハウスがこう指摘する。
「日本電気ホームエレクトロニクスはゲーム機メーカーになろうと思っているわけじゃない。だからこの市場に進出するには、ある理由づけが必要だった。それがコア構想という言い方になったわけです。はじめからゲーム機を売ろうとしているなら、あんな価格体系にはならない。廉価版(シャトル)や高級モデル(スパグラ)も、本当にユーザーがPCに望んだものでしょうか。私にはどれも、ハードで儲けようというパソコン屋さんの発想にしか思えません」
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著
「玩具店の多くは小さな店だから、ハードの種類は少ないに越したことはない。PCはコア、CD-ROM2、スパグラ、シャトルと種類が多すぎて商品管理が面倒なんです。家電ルートなら、商品の種類が多少増えても、店員に専門的な知識があるから対応できる。オモチャ屋さんは人形からプラモデルまで種々雑多を扱っていて、ファミコンとどう違うのか尋ねられても答えられませんよ。玩具流通を知らないのが、売り上げに現れているってことです」
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著

つまり、NECはゲーム機ビジネスに参入したのではなく、パソコンビジネスの延長線としてPCエンジンに取り組んでいた、それが従来のゲーム業界・流通には受け入れられず、失敗となる原因になったということです。ハドソンがNECを口説く際に、「マルチメディア」という言葉を使っていましたが、NECはゲームではなくマルチメディアにこそ取り組みたかったのではないでしょうか。NECのテレビCMで流れていた「C&CのNEC」というCIが、「マルチメディアのNEC」に変更となったのは1994年。つまり、PCエンジンから次世代機PC-FXに世代交代する時期だったことが思い出されます。

 NECがハードウェアを売ることで利益を得ようとすることは、それほど批判されることなのでしょうか。これはNECと、任天堂をはじめとする他社ゲーム機プラットフォーマーとの考え方の違いを表しています。任天堂やセガは、ゲーム機本体は薄利、場合によっては赤字(販売価格よりも製造コストのほうが高い)になっても、できるだけ安い価格を設定することで広く普及させ、その代わりにゲームソフトの売上およびサードパーティからのロイアリティ収入で利益を挙げる、というモデルと採用しています。 これは大変リスクの高いやり方で、自社のゲーム機が普及しなければゲームソフトが売れず、ソフトが売れなければサードの新作や有力タイトルが期待できず、ますますハードが売れないという悪循環を招くことになります。先に例に挙げたセガのドリームキャストでは、本体を一台売るたびに赤字が1万円増える計算となったそうで、結果巨額の赤字を出したセガは、自社ゲーム機ビジネスから退くことになります。
 ゲームソフトウェア全体の売上が当時よりも減少した今日では、この考え方も変わってきたと思われます。が、このPCエンジンの価格帯、たとえばスーパーグラフィックス3万9800円、CD-ROM25万7300円、DUO5万9800円などは現在でも高いと言わざるを得ないでしょう。任天堂が小学生のお年玉の額を調査して、そこからファミコンの価格を1万4800円を設定したというエピソードがありますが、その任天堂も1990年に発売したスーパーファミコンでは価格を2万5000円に設定し、「子どものおもちゃなのに高すぎる」と当時世論の批判を受けたことがありました。ですので、このNECの価格設定が受け入れられなかったのは当然と言えます。

 この点にNECも気づいたのか、PCエンジンも何度かのモデルチェンジを経ながら徐々に定価を下げていきました。ですが、ここで先ほどの流通の問題が表面化します。
 当時の玩具流通では、商品はメーカーから一次卸、そこから二次卸を経て小売へと流れてゆきます。卸は投機的に見込みで発注を掛けるため、買い手がつかなかった余分な商品は在庫として保管し、また小売もある程度の量を在庫として保持します。こういった流通過程に滞留している商品在庫のことを流通在庫と呼びますが、いくつもの流通経路を経る結果、メーカー側は正確な流通在庫の量を計ることは不可能です。
(※この煩雑な流通の変革に乗り出すのがソニー・コンピュータエンタテインメントです。これについては別のページで考察します。)
 つまり、旧モデルのPCエンジンが流通や小売に在庫として残っているのにも関わらず、新たなモデル・新価格のPCエンジンが次々に発売され、流通や小売を混乱させることとなったのです。もちろんNECも説明を行いましたが充分とは言えず、先の引用にもあったとおり、玩具流通や玩具小売店には敬遠されることとなりました。結果、PCエンジンは秋葉原・日本橋などの電気街や、大手カメラチェーンなどの大規模量販店での販売が中心となりました。初心会という強力な流通を持つ任天堂が、街の小さな文房具店にまでスーパーファミコンを卸していたというエピソードとは対照的です。

さて、以上の点から、当初からNEC HEとハドソンは、任天堂に勝ちゲームビジネスの王者に立つことを目指していたのではないことがわかります。ゲーム機としてスタートしたPCエンジンですが、実際はNECのマルチメディア戦略の一端を担わされていたのでした。そして、そのマルチメディアの目玉はCD-ROMの採用でした。
ではPCエンジンのCD-ROM2機は、「世界で580万台」という出荷台数のうちの何割を占めるのでしょうか。歴代ハード出荷台数によりますと、以下の通りとなります。

名称/海外名称 販売台数(万台) 備考
PCエンジン / TurboGrafx 16392関連ハード含む
CD-ROM2 / TurboGrafx 16 CD192DUO含む
(計)584 

PCエンジンの非CD-ROM機の台数約400万台に比べ、CD-ROM機は約半分の200万台となっています。後期には、主要なゲームソフトのほとんどをHu-CARDではなくCD-ROM2用としてリリースしていたPCエンジンですが、その頃には半分以上のPCエンジンユーザーが、CD-ROMによるマルチメディアエンターテインメントの恩恵を享受しなかったことになります。 (もちろんCD-ROM機の台数には一体型機であるDUOも含まれ、当然買い換えたユーザーも存在するので一概には言えません)
この200万台という数字もゲーム機としては失敗ですが、パソコンの延長線上で見ているNECにとっては成功であったかも知れません。当時、国内のパソコンシェアの50%を抑えていたいわれるPC9801でさえ、累計360万台(1990年11月時点)だったからです。(参考文献4.)

 PCエンジンCD-ROM2の発売から数年後の1990年、北米でもパソコンの分野でCD-ROMを採用したソフトウェアのヒットが相次ぎます。代表的な作品としては、マッキントッシュで発売され世界で爆発的なヒットとなった『スペースシップ・ワーロック』が挙げられます。この頃から家庭用ゲームソフトの売上は北米が中心となり、日本のソフトハウスも国内市場よりも北米市場を狙ったマーケティングを始めます。では、PCエンジンは日本よりも、この北米でこそ受け入れられたのではないでしょうか。
 海外ではPCエンジンは、TurboGrafx 16という名前で販売されました。8bitのCPUを搭載したTurboGrafxが「16」という数字を冠しているのは、グラフィック周りの処理を16ビットで行っているからだそうです。(同様の理由で、アタリ ジャガーも64ビットを謳っていました。)
 「世界で580万台」という出荷台数のみで、国内・海外のそれぞれの出荷台数はNECから公表されてませんが、北米については若干のデータがあります。以下の資料によると、北米では100万台未満の出荷台数に終わったようです。

The TurboGrafx-16 system initially sold well in America. In 1990 NEC reported sales of 400,000 units. When Sega released the first true 16-bit console, the Genesis, several months later in 1989, TurboGrafx was quickly overtaken. Less than one million total TurboGrafx systems were sold in America.
http://www.answers.com/

北米以外にも、PCエンジンはヨーロッパや韓国で若干数出荷されたようですが、それらを合計しても海外出荷数は100万台をいくらか超える程度ではないでしょうか。つまり、580万台のうちの大半が国内で販売された台数ということになります。
 なぜ、ここまで国内と海外で差が生じることになったのでしょうか。以下にTurboGrafxについての、北米での評価を引用します。(訳者により「PCエンジン」と訳されていますが、これは北米TurboGrafxについての話です。)

NECが発売したPCエンジンに接して、ビデオゲームプレイヤーは、そのゲームソフトの質感やきめの細かさに感心した。しかし、この新技術の裏にあるパワーが強ければ強いほどいいという論理には欠陥があった。NECはそれを手痛い教訓として学ぶことになる。なるほど新しいパワフルなマシーンにはそれまでにない良質なグラフィックスやサウンドの機能が備わっていたが、NECは肝心のゲームの改良をなおざりにしてしまった。どのソフトも面白くないのだ。結局、NECの一六ビット機は<テトリス>や<スーパーマリオブラザーズ>や<ゼルダの伝説>はいうに及ばず、他に何百とある任天堂のゲームとの競争にも耐えられなかった。だから、ハードウェアとしては優秀なのに、PCエンジンの売上数は遂に一〇〇万の大台に達しなかった。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳
とはいうものの、PCエンジンの技術が業界の技術通を本当に唸らせるほどすごいものだったら、NECのために一肌ぬごうというソフトハウスも出てきたはずである。ソフト業者の中には、これはという新技術が出ると、市場が狭いとわかっていても、それ用のソフトを作るところがあるのだ。ところが、ゲームデザイナーやプログラマーたちにいわせると、PCエンジンに見られる進歩はごくささいなものでしかない。NECは同機を一六ビット・マシーンだと宣伝したが、実装されていたのは八ビットのプロセッサーを一六ビットにパワーアップしたものにすぎなかった。「あれじゃすぐにガス欠になりますよ」と、あるソフト技術者は評した。「あの技術には厳しい制約があります。本当の一六ビット・マシーンじゃないんですから」ゲームデザイナーを魅了する性能を欠き、肝心のプロセッサーも力不足となると、いいソフトが得られないのも当然である。かくして、PCエンジンは脅威にならないとわかり、山内も一安心した。
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳

つまり、スーパーマリオのようなヒット作に恵まれなかったことと、国内ではファミコンに近い設計を採用することで開発者に歓迎されたPCエンジンが、皮肉なことに北米ではNES(ファミコンの北米での名称)と大差がないという理由で敬遠されたことが、北米でヒットとならなかった原因と分析されています。
他の原因としては、

が挙げられます。

 ハードウェアのパワー不足、海外での不振という事情もあり、PCエンジンは国内のニッチな市場に活路を見出そうとします。いわゆる美少女ゲーム、ギャルゲーと呼ばれる路線です。現在のゲーム機は標準で動画再生機能を有しますが、PCエンジンにはそこまでのパワーはないため、静止画像を紙芝居のようにコマ送りしてアニメーションさせ、それと同期させて声優の演技をCDの生音によって合わせるという、カートリッジ形式のゲームでは不可能なCD-ROMの利点を生かしたソフトを、後期にリリースし始めます。
 これはある程度の成功を収め、他社ゲーム機との差別化を図ることができました。PCエンジンの主要ソフトハウスであるハドソンやナグザットといった会社も、次々と美少女ゲームをリリースしてゆきました。またNECが国内で圧倒的なシェアを誇るパソコンPC9801シリーズを有し、パソコンで発売されていた成人向けゲームのソフトハウスとパイプを持っていたことも幸いしました。NEC自身の子会社がこれらの移植を積極的に行いました。
 この成功を受け、NEC HEはこの美少女路線をPCエンジンに続く次世代機においても推進していきます。PCエンジンにはなかった強力な動画再生機能を持ち、アニメーションを生かした美少女ゲームを容易に開発できるPC-FXです。
 そして、この選択は当時のトレンドを読み違える結果となりました。

他社の製品を見た本庄は息をのんだ。プレステとセガサターンは、本格的な立体映像(3D)を持ち込んでいた。「こちらがアニメなら向こうはリアルな世界」。多くのソフトメーカーも、3D用の商品を競い合った。
(中略)
しかし、3Dに乗り遅れたFXに、人気シリーズを引き留める力はなかった。
朝日新聞2001年12月1日夕刊

 ニッチ市場に特化した結果、NEC HEは次世代機において惨敗することとなります。この1994年には、家電業界の雄である松下が3DO、そしてソニー・コンピュータエンタテインメントがプレイステーションでゲーム機戦争に参加してきました。シェア争いが激戦を極めるなか、トップシェアを狙う気概のないNECでは、この戦争を生き残ることはできなかったのでしょう。

 97年末、本庄は社長から撤収を告げられた。売れたのは11万1千台だった。
朝日新聞2001年12月1日夕刊

 NEC HEは自社プラットフォームから撤退し、他社ハードに参入してソフトを供給を始める選択を採ります。が、程なくして会社自体が解散する結果となりました。


参考文献
  1. 朝日新聞 2001年12月1日夕刊 ウィークエンド経済.
  2. ソニー・セガ・任天堂・ゲーム機最終戦争 馬場宏尚 著
  3. 「ドラクエ」「信長」ソフト産業の崩壊 高橋健二 著
  4. スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二 著
  5. ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ=著 篠原 慎=訳